昭和天皇のA級戦犯合祀に関する発言のメモとして旧宮内庁長官の富田朝彦氏(故人)の手帳に書き留められていたことが解った。
昭和天皇は合祀に対し不快感を表し「それが私の心だ」と結んで心の内を吐露している。
識者はこのメモに対し「昭和天皇の思いが記された貴重な記録だ」と評価する一方、「A級戦犯14人全員の合祀に不快感を示していたとまでは読み取れない」、「手帳のあのページだけ紙が貼り付けてある。メモを宮内庁で見た人はいない。本当に昭和天皇が言ったかどうかもわからない」と言う意見もある。
また、天皇の靖国参拝は昭和50年11月を最後に途絶えているが、その理由は当時の三木武夫首相の参拝は公人ではなく私人としてだということを強調したため天皇の参拝も政治問題化したという見方と3年後の昭和53年10月にA級戦犯の合祀があったからという2つの見方があったが、「富田氏のメモは後者の説を補強するといえるがそれは学問的な評価にとどめるべき」と言う社説もある
昭和28年8月の国会では「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択され、これにより死刑を免れたA級戦犯やアジア各地で裁かれたB、C級戦犯を釈放し、刑死・獄死した戦犯の遺族に年金が支給されるようになった経緯がある。また、戦犯は旧厚生省から靖国神社に送られる祭神名票に加えられ「昭和殉難者」として昭和53年に合祀された。
昭和天皇の側近であった木戸幸一内相の「日記」では昭和天皇はA級戦犯に対し同情を示している。昭和20年8月29日に「戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛にして忍び難きところ」、同年9月20日には「敵側のいわゆる戦争犯罪人、ことにいわゆる責任者はいずれもかつては只管忠誠を尽くしたる人々」と語ったという。
大原康男・国学院大教授は今回のメモで注目すべきは日独伊三国同盟を推し進めた松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使を一番批判し、昭和天皇は「独白録」でもそのように述べている。メモが事実だったとしても昭和天皇がA級戦犯合祀そのものに不快感を示しているとは言えないと指摘する。
新田 均・皇學館大教授は激動の時代を目撃してこられた昭和天皇の昭和63年当時の思いとして重く受け止めたい。だからといって靖国神社のA級戦犯分祀論を肯定するとか首相が参拝してはいけないという結論にはならない。
色々な意見や考え方があります。「これからのことは今上陛下と平成の国民が主体的に考えて国家意思を決めるべきだ」という新田 均教授の意見が印象的でした。