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知っておきたい日本人

皆さん、南極と北極はどちらが寒いかご存知ですか?

答えは南極だそうです。北極の最低気温は氷点下60℃くらいですが、南極は氷点下89.2℃の地上最低気温を記録したことがあるのだそうです。

僕は知らなくて恥ずかしい思いですが、今日は南極観測船「しらせ」の由来にについて記述しておきます。南極観測は昭和32年(1957年)から開始されましたが、観測船「宗谷」、「ふじ」に続いて命名され活躍したのが「しらせ」だそうです。

今から95年前の明治45年(大正元年)(1912年)1月、人類史上初めて極寒の南極に上陸し、日の丸を氷上に立てた勇気ある白瀬 矗(しらせ のぶ)という人がいました。白瀬は文久元年(1861年)6月13日、秋田県由利郡金浦村の貧しいお寺に生まれたそうです。

16歳になった白瀬は東京に出ました。とは言っても汽車も汽船も自動車もない時代のことです。山を歩き野宿をしながら大変な苦労の末、東京に辿り着いたとあります。東京到着後は浅草の宗教学校に入ったようですが、同級生からは白瀬のズーズー弁をからかって「東北のサル」と呼ばれましたが、白瀬は負けるものかと大喧嘩をして学校を飛び出し「大探検家になりたい」という夢に向います。

そのためには身体を鍛えなければならないと考え軍隊に入りました。仙台の師団に配属されて千島の探検を思い立ちました。そして32歳のとき転機が訪れたのです。海軍の郡司成忠(ぐんじしげただ)大尉が計画した千島探検の一行50人に加えてもらうことが出来ました。択捉島に上陸し北端の占守島に渡りましたが、仲間が次々と倒れるなか白瀬は三年間頑張り抜きました。第2次千島探検ではベーリング海からアラスカを踏査しました。ところが明治42年(1909年)、アメリカのピアリーという人が北極を踏破したという報道を聞いて白瀬は愕然とします。ここで彼は北極を諦め正反対の南極を目指すことになりますが、もはや個人の野心という問題ではなく世界を向こうに回しての日本の国家的事業と考えるようになっていました。

白瀬は政府や議会に幾度となく南極探検の資金援助を要請しましたが、一向に関心を示してもらうことが出来ず、「よし、それならば世論に問うてみよう」と『南へ、南へ』と題した演説会を開き人々に支持を訴えました。この熱意に動かされたのが乃木希典将軍や大隈重信伯爵でした。新聞社などにも協力をしてもらい集められた寄付金で航海船「海南丸」3本マスト・204トン)が建造され明治43年11月28日、ようやく日本を出発したのですが、この船の命名者は時の東郷平八郎元帥でした。
白瀬はこのとき既に退役陸軍中尉になっていました。

4ヶ月かかって南極に近づきましたが南極は既に冬に入っており、激しい吹雪で近寄ることが出来ませんでした。海南丸は出航の時期が遅すぎたことを悟り、止む無くオーストラリアのシドニーまで引き返し夏が来るのを待ちました。白瀬一行はお金が無いのでホテルには泊まれず海岸近くにテントを張って野営をし船の修理などをして過ごしました。滞在中にはシドニーの新聞社や人々から「日本の探検隊はニセモノで、あれは鯨の密漁船だ。あんなちっちゃな船で南極へ行けるものか」とか「ゴリラが捕鯨に来た」などと罵られましたが、シドニー大学の有名教授が賛辞を寄せたことから風向きが変わり「ゴリラから英雄」になった一行には結婚の申し込みが殺到したという笑い話まであるようです。

明治44年(1911年)11月19日、いよいよ南極探検再挑戦のときがやってきました。探検隊員27名、カラフト犬30匹、白瀬はもう50歳になっていました。

一行はホエール湾に上陸し、南極点を目指しました。しかし、激しい風と雪の中、食糧も底をつき始めました。白瀬はノートに「南緯80.5度、西経156度、上陸地点から247km」と書き込み、「止まれっ!」と命令を下し引き揚げを決意しました。

白瀬は厳かに宣言しましたこのあたりを大和雪原(やまとゆきはら)と命名しよう」と・・・
ほかにも海南湾、大隈湾と名づけた地点もあるようです。隊員たちは感激の涙で頬を濡らし「ばんざい」と叫びながら南極の氷の上にしっかりと日の丸を掲げました。南極では昼と夜が半年交代になります。今回の探検では夜がありません。日の丸は沈まぬ太陽の光を浴びて強い風のなか燦然と翻りました。

現在、日本の南極観測は第48次観測隊(越冬隊35人、夏隊27人)みずほ基地でオゾン層やオーロラの観測など環境調査の活動をしています。
その礎は明治の探検家・白瀬 矗が苦難の末に築いたものだったのです。

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