昨日で満60歳を迎えました。
干支が5回も回ったんですね。つくづく長く生きてきたんだなぁと思います。
一回り目の12歳は父親の転勤で毛利元就の郡山城がある吉田町にいました。
4年生から中学1年生の1学期まで生活しました。最初の年は東京オリンピックが開催され、豪農のお宅で入場行進を見たのですが、胸が高鳴り、鳥肌の立ったのを覚えています。
この頃、5年生、6年生の担任だった冨永主計先生と巡り合ったことが、育ち盛りの僕に大きなインパクトを与えたのでした。
24歳のときは、就職後2年目を迎え、電電公社近畿電気通信局で働いていました。窓からは大阪城が目の前でいつも雄大でした。職場の人達に温かく接していただきながらも世の無情、不合理、真理と常識の乖離に気がつき始めた頃です。
次の年に結婚することになるのですが、ゴールデンウィークを利用して帰広したことがきっかけで家内に巡り合いました。
36歳のときは仕事に打ち込んだ全盛のころです。しかしながら、夢にも思わなかった二度目の転職を28歳で決断し、家族中、親戚中から反対されてのことでしたから自身の大きな転機になりました。人生観も全く変わってきたのがこの頃です。既に長男も生まれていましたし、今でも電電公社を辞めるなんてお前バカじゃないのと皆から言われています。
48歳では、人生で全く予定も計画もない市議会議員になっていました。
何だこれっ!何でこんなことになるんだろうと思うほどに人生を迷って迷ってたどり着いた結果でした。当然まぐれで当選したのですが、しかもハードルが高いと言われる2回目の選挙に直面した歳ですが、まぐれが2回続いてまた当選しました。この頃、秋葉市政との戦いは「女性助役問題」をはじめ激しい議会になりました。
52歳では、議員生活一色です。8年間も在籍し、市議会議員2期満了を控えて3回目の選挙に突入しました。この世界でも色々ありました。夢にも思わなかった無情や理不尽さは、この世界でも経験、体験するる事になり、複雑な思いに嘆き、悲しみ、苦しむことになりました。
60歳。遂にこの年が来ました一般的には定年を迎える歳ですよね。社会構造が変わってこれでリタイヤする人は少ないかもしれませんが、人並みにこの歳を迎えられたことに感謝です。つくづく迷惑をかけて生きてきたんだなぁと思います。
誰かが何かをするわけでもないのに、外は新緑が眩しく新鮮な酸素が自然に大量生産されています。そして5月の風、即ち薫風が初夏の心地よい風を運んできます。1年で一番好きな時季です。また、10ケ月先は5回目の選挙です。これまでにも多くの皆さんにお世話になって迷惑をかけながらこの仕事を続けていますが、さらに迷惑をかけることになりそうです。多くの皆さんに応援してもらって幸せ感いっぱいですが、政治家の端くれとして気持ちを貫こうとすれば我儘が顔を出します。
おそらく僕はもう少しの間、迷いながら生きていくことになりそうです。その中で真は何かそれに近づける人生を見つけていきたいと思います。
僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる(高村光太郎)
僕の人生は、まだ結論が見えませんが、何処にたどり着く旅か分からない長旅を命ある限り歩いていきたいと思います。
自分の歩く道が誰かの役に立つと信じて・・・