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過去のひと言

システムリニューアル前に書き溜めていた今日のひと言の過去ログ

 

現在は 母谷たつのりのFacebookページ にて今日のひと言をつぶやいております。

続投正式表明

2007年11月08日

民主党の小沢一郎代表は7日夕方、同党の両院議員懇談会で演説し、「来るべき衆議院の総選挙で民主党が勝利し、政権交代できるよう私の政治生命をかけて最後の決戦を戦う」と述べ万雷の拍手を浴びていました。これで辞任劇から3日を経て正式に辞任を撤回し一応の収束を図りました。

しかし、党内には反小沢グループを中心に疑心暗鬼な心理状態や批判は完全に解消されていないことから基盤強化が当面の課題となりそうです。

今回の騒動で僕なりに解ったことが2つあります。

その一つ、小沢一郎という人は政策実現という目的達成のためには手段を選ばない真っ直ぐな人だという事です。(別の言い方をすれば不器用な人)
僕は政策自体を評価しているわけではありませんが、小沢さんは参院選で約束した国民のための政治を実現するために行った今回の党首会談は民主党からは全く評価されませんでしたが、政権の一翼を担って党の能力を発揮することで実績をアピールしようとしたことは方法としても責任を果たす上でも政治家として決して間違っていなかったと思います。
形式にこだわらず名より実を取る姿勢が強く表れていると思います。
しかし、民主党国会議員や国民の多くがこれを密室の談合と受け止め、アブノーマルな手法と感じたところに無理がありました。今の時代、この考え方ややり方は全く通用しなくなっています。議員や世論は形式にこだわっていますが、次期衆議院総選挙で一発政権交代という絵に描いたようにキレイににいきますかね。小沢さんはここのところに大きな懸念を持っていたのではないでしょうか。今のままでは法案が1本も成立しない与野党の状況では国民生活に重大な影響を与えるとを考えてのことでしたが、評価されませんでしたね。

2つ目は政策実現のためには恥を忍んで蛇でも鬼にでもなれる恐ろしいだという事です。普通の人にはとても真似の出来ない肝の座った人だと思います。今回、小沢代表は1つ目で述べたことが政権交代を目指す上での近道と判断してのことでしたが、代表を慰留され復帰するに当たっては党内情勢を見極め当面、自論は封印して選挙の顔としてなくてはならないと考えている多くの民主党国会議員の心理を巧に操って代表復帰を成し遂げましたね。

この二つの点だけ見ても小沢一郎本人から見れば今の民主党はケツの青い寄せ集め集団に見えて政治レベルの低さと志の違いに大きな落胆を隠せなかったがために起きた騒動だったように思えます。

それにしてもテロ特措法や薬害肝炎、年金問題関連法案などの重要法案に限らずこのネジレ国会では法案が成立しませんが、国民の皆さんは本当にこれでいいんでしょうかね。この後は衆議院解散を目指して民主党のさらに厳しい攻撃が予想されますが、後になって気がついても後の祭りとはこのことです。
逆に言えばこういう事が予測されるから解散が早くなるという事かもしれませんが・・・
自民党は今後ますます危機感を募らせ性根を入れて国民の負託に応えなければいけませんが、勝てる選挙態勢を早く作ることが大事です。

さぁ、これから国会での議論は白熱し、見ている人には面白い状況になりますが、結果として終わってみれば何ら得られない状況を国民はどのように思うのでしょうか。疑問・心配

どっちが本音

2007年11月06日

民主党・小沢代表の辞任表明を受けて党執行部は昨日から奔走しています。

ホテルに籠もっている小沢代表を鳩山由紀夫幹事長、菅 直人代表代行、輿石 東参院会長などが訪れて辞意撤回の慰留工作に務めました。しかし、本人は「昨日、辞職願を出したばかりで心の整理に時間が必要」として謝意を示しながらも回答を留保しました。

役員会では連立を前提としない自民党との政策協議には応じるという意見集約を決定していますが、小沢代表もその辺りに理解を示し「選挙に勝てる態勢ができればいい」という軟化路線も見え始めています。

今日は党内で当選回数別の意見聴取が行われる予定ですが、代表続投について賛否両論、喧々諤々の話し合いが予定されています。

執行部の慰留は「政権奪取のためには小沢が絶対必要」と考えているのか、それとも辞任を受諾すれば「参院議員17人に近い数を引き連れて離党されるのが怖い」からなのか、はたまた衆院選を前にした当事者の議員たちは当落に左右する問題だけに損得勘定を弾いて複雑さが絡まっており、そこら辺が難しいですよネ。

民主党という味方の陣地に手荒い爆弾を投げつけて選挙で勝てるよう党を引き締めて立て直すのか、それとも政策実現という現実路線を進み見切りをつけるのか、小沢氏本人はこうした党内情勢や世論をどのように分析し結論を出すのか、これは大変な見物ですがどうなるでしょうか。

しかし、一旦辞職表明したのに仮に党の決定とは言え代表職に留まるというとがあれば求心力低下は否めませんが、本人は覚悟上での行動でしょう。一般的にはなかなかできる芸当ではありませんがこの世界は分かりませんよ。

これまた、『行くも地獄、帰るも地獄』ですね。

これはビックリです

2007年11月05日

民主党小沢一郎代表は4日午後2時過ぎ、代表を辞任する意向を表明し、4時半過ぎから党本部で記者会見を開きました。
僕は昨日夕方、結婚式から帰って来て初めてこのニュースを知りました。もうビックリです。でもこの人の究極の目標は政界再編でしたからねぇ。

「政治的混乱が生じたことへのけじめをつける」ということが辞任表明の理由だそうです。政治的混乱とは2日の自民党・福田康夫首相との党首会談で『大連立構想』を持ちかけられ、その後持ち帰って緊急党役員会に諮ったところ全員から反対の意思表示を受けたことが「自身に対する不信任である」と受け止めたようです。(本人にとっては政策実現のための旨みがあると高度な政治判断を考えていたのでしょうからね)

小沢代表自身は参院選で勝利した民意の政策実現が必要であると考えており、政権の一翼を担うことで政策立案・実行能力、政権担当能力を国民に示したかったようです。そうすることが二大政党制による政権交代の近道であるとの考えを強調しました。しかし、民主党国会議員や支持者の多くは「戦いの敵と手を組むことは出来ない」という単純な見方で拒否反応を示し、次期衆院選でも大勝して一気に完全民主党政権樹立を描いていた人が多かったようです。

ところが小沢一郎代表は、代表の立場でありながら辞任表明の記者会見で「民主党は力量不足「次期衆院選で民主党は勝てない」とハッキリ発言していることからも党内での運営や政策の考え方にかなりの隔たりがあるようです。肝心なところで政策が一致していないのに参院選大勝で浮かれている自軍の内情に幻滅し、これでは戦えないと考えたのかもしれません。

そりゃそうかもしれませんね。参院選は年金問題で勝てたかもしれませんがが、衆院選では今、正に問題になっているイラク特措法を巡る国際貢献のあり方については党内で路線の違う考え方を持った人が多いことやその先の憲法問題となればなおさらでしょうね。

いずれにしても午後から開く党役員会で辞職願いの受理について対応を協議するようですが、慰留か容認か決まります。急転直下、事と次第によっては党分裂の危機に直面していると言えるこの状況を民主党はどのように乗り越えていくのかしっかり見守りたいと思います。

すっきりしませんね

2007年11月02日

昨日、日本シリーズはナゴヤドームで第5戦を行い、中日が1:0で勝ち、2戦目からの4連勝で53年ぶりにプロ野球日本一の栄冠に輝きました。
1954年以来と言いますから僕の生まれた年以来ということになりますね。

中日は今季から導入されたクライマックスシリーズを勝ち抜いてリーグ覇者以外で初めての優勝チームとなりました。中日は11月8日から東京ドームで行われる「アジアシリーズ’07」に出場します。

でも8回終了まで無安打、無得点の完全試合ペースで投げていた山井大介投手に替えて9回岩瀬仁紀投手を送った落合監督の采配は賛否の分かれるところですが、プロ野球監督の経験者は口を揃えて「私なら替えない」と言った星野全日本監督の考え方に賛成の人が多いようです。

結果的には完全リレーという形で勝利しましたが、山井投手が続けて投げて完全試合達成も日本シリーズ史上初の大記録、大記録達成を前に投手交代させた落合監督の決断もまた、プロ野球史上に残る大記録ですね、これは・・・

また、今日は第5回臨時会が開催されました。

去る10月14日未明に起きた岩国基地の米軍海兵隊員による女性暴行事件(10/20報道時点)について広島市議会として地方自治法第99号に基づく意見書を提出するか否かという問題で会派としての態度を決めるため本会議を前にした9時40分から党議が開かれました。

報道当初は女性(19)も被害届を提出し、米兵4人による集団暴行事件として立件されそうでしたが、女性の供述に曖昧な点が多く警察当局は逮捕状の請求を断念し任意での取調べに切り替えました。いわゆる事件として成立していないということです。

こうしたことを前提に考えると現時点で傷害罪も暴行罪もましてや強姦罪も成立していない状況で公式文書として「米国軍人による集団暴行事件に関する意見書」を内閣総理大臣、衆参両院議長、外務、防衛大臣宛に意見書を提出するのはいかがなものかということから我が会派ではこの意見書案の提出に賛成しませんでした。まず表題自体が既に断定してしまっていますよね。これは・・・

また、日米地位協定に基づく身柄の引渡しについても米軍は証拠となる自動車や証拠書類の提出と米兵4人を特定して任意での事情聴取にも応じているなど今回の意見書案に盛り込まれている内容にはかなり無理があるように思います。(犯罪として立件されていない以上、身柄の引渡しはあり得ません。)

そのことを象徴するように「現在、広島県警において捜査中ではありますが~」とか「このことが事実であるとするならば~」という不明確な文言で文章が構成されており、市議会の見識という点では余りにずさんな内容だったのではないでしょうか。

それから蛇足ですが背景には米艦載機岩国移転問題が絡んでいるような臭いがプンプンしています。

知っておきたい日本人

2007年11月01日

皆さん、南極と北極はどちらが寒いかご存知ですか?

答えは南極だそうです。北極の最低気温は氷点下60℃くらいですが、南極は氷点下89.2℃の地上最低気温を記録したことがあるのだそうです。

僕は知らなくて恥ずかしい思いですが、今日は南極観測船「しらせ」の由来にについて記述しておきます。南極観測は昭和32年(1957年)から開始されましたが、観測船「宗谷」、「ふじ」に続いて命名され活躍したのが「しらせ」だそうです。

今から95年前の明治45年(大正元年)(1912年)1月、人類史上初めて極寒の南極に上陸し、日の丸を氷上に立てた勇気ある白瀬 矗(しらせ のぶ)という人がいました。白瀬は文久元年(1861年)6月13日、秋田県由利郡金浦村の貧しいお寺に生まれたそうです。

16歳になった白瀬は東京に出ました。とは言っても汽車も汽船も自動車もない時代のことです。山を歩き野宿をしながら大変な苦労の末、東京に辿り着いたとあります。東京到着後は浅草の宗教学校に入ったようですが、同級生からは白瀬のズーズー弁をからかって「東北のサル」と呼ばれましたが、白瀬は負けるものかと大喧嘩をして学校を飛び出し「大探検家になりたい」という夢に向います。

そのためには身体を鍛えなければならないと考え軍隊に入りました。仙台の師団に配属されて千島の探検を思い立ちました。そして32歳のとき転機が訪れたのです。海軍の郡司成忠(ぐんじしげただ)大尉が計画した千島探検の一行50人に加えてもらうことが出来ました。択捉島に上陸し北端の占守島に渡りましたが、仲間が次々と倒れるなか白瀬は三年間頑張り抜きました。第2次千島探検ではベーリング海からアラスカを踏査しました。ところが明治42年(1909年)、アメリカのピアリーという人が北極を踏破したという報道を聞いて白瀬は愕然とします。ここで彼は北極を諦め正反対の南極を目指すことになりますが、もはや個人の野心という問題ではなく世界を向こうに回しての日本の国家的事業と考えるようになっていました。

白瀬は政府や議会に幾度となく南極探検の資金援助を要請しましたが、一向に関心を示してもらうことが出来ず、「よし、それならば世論に問うてみよう」と『南へ、南へ』と題した演説会を開き人々に支持を訴えました。この熱意に動かされたのが乃木希典将軍や大隈重信伯爵でした。新聞社などにも協力をしてもらい集められた寄付金で航海船「海南丸」3本マスト・204トン)が建造され明治43年11月28日、ようやく日本を出発したのですが、この船の命名者は時の東郷平八郎元帥でした。
白瀬はこのとき既に退役陸軍中尉になっていました。

4ヶ月かかって南極に近づきましたが南極は既に冬に入っており、激しい吹雪で近寄ることが出来ませんでした。海南丸は出航の時期が遅すぎたことを悟り、止む無くオーストラリアのシドニーまで引き返し夏が来るのを待ちました。白瀬一行はお金が無いのでホテルには泊まれず海岸近くにテントを張って野営をし船の修理などをして過ごしました。滞在中にはシドニーの新聞社や人々から「日本の探検隊はニセモノで、あれは鯨の密漁船だ。あんなちっちゃな船で南極へ行けるものか」とか「ゴリラが捕鯨に来た」などと罵られましたが、シドニー大学の有名教授が賛辞を寄せたことから風向きが変わり「ゴリラから英雄」になった一行には結婚の申し込みが殺到したという笑い話まであるようです。

明治44年(1911年)11月19日、いよいよ南極探検再挑戦のときがやってきました。探検隊員27名、カラフト犬30匹、白瀬はもう50歳になっていました。

一行はホエール湾に上陸し、南極点を目指しました。しかし、激しい風と雪の中、食糧も底をつき始めました。白瀬はノートに「南緯80.5度、西経156度、上陸地点から247km」と書き込み、「止まれっ!」と命令を下し引き揚げを決意しました。

白瀬は厳かに宣言しましたこのあたりを大和雪原(やまとゆきはら)と命名しよう」と・・・
ほかにも海南湾、大隈湾と名づけた地点もあるようです。隊員たちは感激の涙で頬を濡らし「ばんざい」と叫びながら南極の氷の上にしっかりと日の丸を掲げました。南極では昼と夜が半年交代になります。今回の探検では夜がありません。日の丸は沈まぬ太陽の光を浴びて強い風のなか燦然と翻りました。

現在、日本の南極観測は第48次観測隊(越冬隊35人、夏隊27人)みずほ基地でオゾン層やオーロラの観測など環境調査の活動をしています。
その礎は明治の探検家・白瀬 矗が苦難の末に築いたものだったのです。

運命の星

2007年10月31日

早稲田慶応を7:0で破り3期連続Vを達成しました。

慶応、明治と三つ巴となっていた東京6大学野球秋季リーグ戦の行方は伝統の一戦にかかっていました。初戦を慶応が延長12回裏に1点を挙げてしぶとく勝ち優勝に望みを繋ぎましたが、一昨日早稲田に2:0で負けて優勝の望みはなくなりました。(慶応は勝率で両校を上回るには連勝が条件でした)

早慶戦の第三戦、このカードで勝ち点を挙げれば優勝の早稲田はエース斉藤祐樹投手が先発し、15奪三振を奪う力投で完封し栄冠を勝ち取りました。
また、斉藤投手は新人の投手としては初めて春夏連続でベストナインを受賞しました。

昨年夏は甲子園優勝投手、大学に入ってからも2期連続優勝という信じられないキャリアを積み重ねています。この人の運の強さというかここ一番で踏ん張れる実力は並みの素質ではないですね。こうしたの下に生まれ活躍出来る人は稀ですが、こうしたヒーローは何年かに一人必ず出てくるものですね。

早稲田は過去4期連続優勝という記録がありますが、斉藤投手は「ここでその記録を破っておきたい」と力強く語り、マスコミも『早稲田は黄金時代に突入した』と報じており、快挙達成がなるか注目を集めそうです。

珍 事!?

2007年10月30日

昨日29日、日本相撲協会は11月11日から始まる九州場所の新番付け発表しました。

今回の番付では前回までの横綱、大関、張出大関の東と西がそっくり入れ替わったようです。
横綱白鵬は昇進三場所目で東の正横綱に座り、大相撲の顔として場所を盛り上げることになりそうです。

地元出身の北桜豊桜はともに十両の4枚目、1枚目に下がっていますが、奮起を期待したいですね。

ところで今回の番付けでは134年ぶりの珍事があったようです。

今回の番付けは9月26日に行われた番付け編成会議で既に決まっていました。ところが時津風親方が相撲協会から解雇され、時津海が部屋を継承したため番付表から力士名が消えて親方として載ったことで前頭11枚目が空席となってしまいました。

ここのところ朝青龍問題、力士急死事件などで揺れに揺れた角界だけにクリーンで人気のある大相撲を早く取り戻して欲しいと思います。

熱戦繰り広げる

2007年10月29日

スポーツの秋ですかね。

昨日は手に汗握る場面が多くありました。

一つ目はクアーズ・フィールド(ロッキーズ本拠地)で行われた米ダイリーグのワールドシリーズ松坂大輔投手がロッキーズ相手に5回3/1を投げて3安打2失点と好投し勝ち投手となりました。試合は10:5レッドソックスが勝ち3連勝で7度目の頂点まであと1勝となりました。昨日は見方が3回に大量6点を挙げて安心して見れましたね。しかもこの回には自らのタイムリー2点適時打も飛び出し試合を優位に進めました。松坂投手は日本人投手として初めてワールドシリーズ勝利投手となりました。
おめでとう!松坂投手。

2つ目は明治、早稲田、慶応が三つ巴の優勝争いの中、神宮球場で行われた東京6大学野球の。明治は既に勝ち点4、勝率0.600でシーズンを終えています。
12回の裏0:0で点が入っても入らなくてもこの回で終わりという2死満塁、四番青池がファウルで5球粘った後、三遊間の深いところに気迫と意地の内野安打を放って決着をつけました。この試合で勝ち点を取れば優勝する早稲田は斉藤投手が先発し6回を5安打無失点に抑えました。
一方、連勝で勝ち点を挙げなければ勝率で明治に及ばない慶応は必勝態勢で加藤投手が先発し12回を一人で投げきり完封し通算30勝目を挙げました。見応えのある早慶戦でした。天晴れです!

三つ目はゴルフの日本シニアオープン選手権
熊本県のくまもと中央CCで最終ラウンドが行われました。首位と6打差で出た青木 功(65)が7アンダー65をマークし、自分の年齢以下のスコアで回るエイジシュートを達成すると同時に同大会10年ぶり5回目の優勝を果たしました。16番ショートホールでバーディーを奪って首位の室田 淳と並び、最終18番ではこれぞ世界の青木という6mのフックラインを見事に決めてこの日8つ目のバーディで通算12アンダー単独首位に立って2組後の室田選手を待ちました。
僕と同世代の室田選手は18番で下り2mのスライスラインを決めることが出来ず惜しくも優勝を逃しましたが、65歳で驚異的なスコアを爆発させて優勝した青木選手を誉めるべきでしょう。お爺ちゃんまだまだ元気だね。

四つ目は札幌ドームで行われた日本ハム中日日本シリーズ第2戦
初回、先頭の荒木が初球を中前にはじき返すとすかさず二盗し2番荒木が右前に運んであっと言う間に無死1、3塁。続く3番森野は外野へ楽々犠牲フライを放ってわずか9球で先制しました。その後も着実に中押し、ダメ押しと点を取った中日が終わってみれば8:1で一方的なゲームで勝利しました。
何がなんだかわからないうちに点を取られた日本ハムはペースを掴むことが出来ずに大敗を喫してしまいました。第3戦以降、場所を名古屋に移しての戦いになりますが、日本ハムにとっては不安材料が一杯という感じですね、こりゃ。短期決戦、投手陣の出来もさることながら中日らしい機動力が試合の流れを決めた一戦でした。自然体でいく、らしさは大事ですよね。らしさは・・・

辛いことです

2007年10月27日

比叡山大乗院住職星野圓道師(32)が今月13日午後に山中の明王堂へ入り、21日午前2時56分に出るまでの9日間、不眠不休、断食で水分補給も断って「堂入り」を行い満行を達成しました。この間、不動真言10万回を唱えたそうです。その瞬間、付き添いの僧侶に抱えられて出てきた師を真夜中にもかかわらず600人の信者が出迎えたそうです。

堂入りは荒行とされる「千日回峰」700日最後の仕上げとされ、この9日間を乗り越えての萬行達成は戦後12人目で達成者は生身の不動明王として「当行満阿闍梨とうぎょうまんあじゃり)と呼ばれるそうです。

修行とは言え、よくもまぁこのようなことができますねぇ。
32歳で大乗院住職になっていることも凄いことですが、やらなければならないという信念がそうさせるのでしょうかね。はぁ~
いや、信念というような甘いものではなくてやらなければならないという使命感と言ったほうが良いのか知れませんね。人間やればここまで出来るんですね。大変なことです。

凡人にはとても真似のできない修行ですが、少しはこうした修行を見習って欲ばかり突っ張った生活は改めないといけませんね。自覚

住民生活の足

2007年10月26日

昨年春、バス事業が許可制から届出制に変わった事や昨年10月の道路運送車両法改正で過疎地域など赤字路線の相次ぐバス路線撤退や減便で移動手段に瀕している住民の実態が浮き彫りになっています。

今日の中国新聞朝刊にもそうした記事が掲載されており、中国地方でこの一年間に36もの自治体が地域公共交通会議を設置しました。広島県では東広島市と庄原市の2自治体に留まっていますが、安芸高田市や安芸太田町のようにデマンド型タクシーの導入などで一定の交通体系再編を済ませているところもあるようです。

しかし、こうした問題は過疎地域に限ったことではなく平野部に存在する旧市内以外の安佐北、安佐南、安芸、佐伯の4区でも高齢化に加えてバス事業者の路線撤退・減便が地域住民の足を奪って深刻な問題に発展しています。

特に人口密度の高い団地では市中心部へのアクセス交通機関としての必要性に加え、自宅とバス停間は急坂なところが多く高齢者にとっては団地内の移動(買い物、医療機関への通院など)もままならない重要な課題となっています。

高齢者対策は福祉問題をやっていれば良いということではなく、生活の基本となるこうした問題の解決には地域だけではなく現状から目をそらすことなく行政としても積極的に取り組む必要があるのではないかと考えています。

あ~あ 勘違い?

2007年10月24日

東国原英夫宮崎県知事がちょっとした発言で物議を醸しているようです。

5年に一度開く和牛の祭典「全国和牛能力共進会」が今月11日から14日まで鳥取県で開催され、宮崎牛が内閣総理大臣賞を受賞しました。

受賞で意気軒昂な知事は「松坂牛、神戸牛かかってきなさい」と発言したようです。ところがこれを伝え聞いた野呂昭彦三重県知事が「松坂牛は全国から集めた雌の子牛を育てたもので出品の対象外である」ことを指摘して「何か勘違いされているのでしょうか」と発言し、「宮崎牛の好成績は三重にとっても喜ばしい」と皮肉をこめたエールを送ったようです。

共進会は効率的な生産技術や和牛の遺伝子的能力を競うもので雌牛を未経産で肥育する松坂牛は出品の対象外なのだそうです。
僕も知りませんでした。松坂牛がそうだったとは・・・

薬害肝炎

2007年10月23日

これは全くひどい話ですね。

汚染された血液製剤フィブリノゲンを投薬されてC型肝炎を発症した人のリストが平成14年時点で418人もいたにもかかわらず、製造元の田辺三菱製薬(旧三菱ウェルファーマ)は2人の実名と116人のイニシャルしか生労働省に報告せず、197人の実名と170人のイニシャルを隠蔽していたことが分かりました。報告を受けた厚生労働省もリストの存在をこれまで公表することなく地下倉庫に眠らせていたことも分かりました。

早く情報を本人に知らせていれば患者が感染源を把握したり、早期治療に役立った可能性があり、余りにもずさんな対応で人命を軽視したこの問題は医療業界の信頼を根底から崩壊させる一大社会問題に発展しそうです。

これまでの裁判の中ではこうした因果関係がはっきりしたしていなかったため原告団は苦汁を飲まされてきましたが、国と製薬会社に対する責任の重さが改めて浮き彫りとなり、各地の裁判は急展開を見せることになるでしょう。

この問題は当然、国会でも取り上げられますが、与野党を超えた政府の真摯な対応が必要だと思います。

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